自著のための補稿(鈴木智彦)

自著の資料、補足、写真、こぼれ話。

ピアニストの文学者、ヴァレリー・アフェナシェフ【005p】

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ヤクザのことはいきなり書ける。俺の中には25年分の蓄積が澱のように溜まっている。それらをすくいあげ、味付けすれば、ヤクザのあらゆる面を描写できるはずだ。ただし、ヤクザというドアを使って他の分野をのぞいた時……それは前々作である『サカナとヤクザ』に顕著だが、新しい知見をインプットせねばならない。

『ヤクザときどきピアノ』は、俺の得意分野であり、他の同業者がなかなか使えない”ヤクザ”というカードを客寄せとして使ってはいても、ピアノ、そして学習する意義を書いた作品である。俺の語彙の中には、たとえば「汚れ」や「社会からの逸脱」を伝えるツールはごっそりコレクションされているが、「美しさ」や「学びの尊さ」を表現するそれはほとんどない。だからピアノや音楽のことを書こうとしても、身体の中に言葉がない。せっかく拳銃を手にしても、弾倉がからっぽなのだ。


なので、どうしても弾薬が必要だった。まずはピアニストのインタビューを読みまくった。名前をあげればけっこうな数になる。イーヴォ・ポゴレリチ、グウィニス・チェン、エリソ・ヴィルサラーゼ、ドミトリー・バシキーロフ、ナウム・シュタルクマン、オクサナ・ヤブロンスカヤ、ウラディーミル・クライネフ、エリザベート・レオンスカヤ、ミハイル・ルディ、ニコライ・ルガンスキーゲルハルト・オピッツラルス・フォークト、レイフ・オヴェ・アンスネス、ピーター・ドノホー、クリスチャン・ツィメルマン、ジェルジ・シャーンドル、タマーシュ・ヴァーシャーリウラディーミル・アシュケナージベラ・ダヴィドヴィチ、リーリャ・ジルベルシュタイン、エフゲニー・キーシン、ロジェ・ブトリ、テオドール・パラスキヴェスコ、ジャック・ルヴィエ、ジャン=フィリップ・コラール、ミシェル・ベロフ、ラベック姉妹、パスカル・ロジェ……日本人ピアニストの本も読みあさった。

もっとも印象に残ったのが、ヴァレリー・アファナシェフのインタビュー集だった。著作である『ピアニストは語る』から略歴を抜粋する。

「1947年モスクワ生まれ。モスクワ音楽院ヤコブ・ザークとエミール・ギレリスに師事。1968年のバッハ国際音楽コンクール(ライプツィヒ)、1972年のエリザベート王妃国際音楽コンクール(ブリュッセル)で優勝。1974年にベルギーへ亡命。これまでに四〇枚以上のCDをリリース、その独自の音楽性が論議を呼び、音楽界に大きな刺激をもたらしている。ピアノ演奏にとどまらず、文学者の顔を持ち、日本でも小説、詩集、エッセイ集などを出版している」

彼の母親もまたピアニストだったという。当時のソ連でピアニストは特別な存在だった。民衆の尊敬を集め、そして、なにより外国に行ける。海外旅行は政府要人の特権であり、ピアニストはその特権を行使できるソ連芸術家の代表だった。だが、海外をみればみるほど、西側の自由に惹かれてしまう。のち、ソ連からたくさんのピアニストが欧米に亡命した。アフェナシェフもその一人だった。

長い間、彼は亡命に関しての体験を語らなかったが、同じ境遇のピアニストが、ソ連当時のことをかさ増しして話すのを批判していた。アフェナシェフは誠実なジャーナリストでもあった。

「音楽はいたるところに偏在する。沈黙の中、静寂の中にすでにある音楽を、ふと聞こえるように示すことが音楽家の仕事なのだ」

能弁なアフェナシェフはどんな質問にも、相手が期待した以上の言葉を返してくる。彼は音楽を言語に、言語を音楽に翻訳出来る、稀少なバイリンガルなのだ。俺はこのピアニストから音楽に関する多くの語彙を得て、音楽を言語化し、拳銃に弾丸を込めていった。

俺の言葉は、誰かの心を撃ち抜けるだろうか。