自著のための補稿(鈴木智彦)

自著の資料、補足、写真、こぼれ話。

佐々涼子さんの新刊『夜明けを待つ』

担当編集の方から送って戴きました。ありがとうございます。めくったら止まらず、最後まで読みました。面白い本を読んだら衝動が湧き誰かに伝えたくなる。一気に感想を書き上げたら、長くなったのでブログにも載せます。SNSには読者からの感想が溢れると思います。

 佐々涼子さんの新刊『夜明けを待つ』を読んだ。後書きは彼女からの別れの挨拶だった。

「五五歳の私は、人よりだいぶ短い生涯の幕を、間もなく閉じることになる。昨年一一月に発病した私は、あと数か月で認知機能などがおとろえ、意識が喪失し、あの世へ行くらしいのだ」

 佐々さんの病気は「悪性の脳腫瘍、その中でも、とりわけ悪性度の高い『神経膠腫』、別名『グリオーマ』」(あとがきより抜粋)である。ノンフィクション作家らしく、自身の死もごまさかずに書くものだなと感心していたら、こんな記述をみつけた。

「私は自分の文章を書く時にひとつだけ決めていることがある。それは誰かをかわいそうな人と決めつけて、そう書かないこと。それはとても表層的な見方だからだ」(本書の『幸福への意志』より抜粋)

 なるほど間近に迫った死をごまかしなく見つめ、五十代半ばで逝かねばならぬ自身を振り返っているのに、実にカラッとしているのはそういうわけか。

「その名前に刻まれた『希少』は、私には『希望』に見えてくる。実際は希望なのか絶望なのか。私にはよくわからない。だが、いいではないか。私にとってそれは、めったに見ることのない『希望のがん』だ」(あとがきより)

 以前、闘病記という一大ジャンルを読みあさった時期があったのだが、自身の病気を「希望のがん」と書いた人を初めて見た。

 

 本書は33編のエッセイと9つの短編ノンフィクションから構成されている。合計42のタイトルから、巻頭に選ばれたのは『死が教えてくれること』だ。佐々さんが見送った肉親の死について書いたエッセイである。佐々さんの希望なのか、編集者の構成なのかは分からぬが、明確なメッセージに違いない。

「生き抜いた母の死に顔は美しく、穏やかだった。私たちは一〇年という長い年月を、とことん『死』に向き合って生きてきた。しかし、その果てにつかみとったのは、『死』の実相ではない。見えたのは、ただ『生きていくこと』の意味だ」(『「死」が教えてくれること』より抜粋)

 誰もがそれぞれにとって必要な「意味」を、自分で考え、判断し、行動することによって発見していく。ノンフィクション作家はおのおの興味を持った現場に飛び込んでいくが、佐々さんは死の現場を選んだ。

 代表作の『エンジェルフライト 国際霊柩送還師』では海外で亡くなった人の遺体を運ぶ仕事に焦点を当てた。『紙をつなげ!彼らが紙の本を作っている』は、多くの命を奪った震災によって生まれた復興と再生の物語である。3冊目の「エンド・オブ・ライフ』はそのものずばり、終末医療の現場を描き、佐々さんは母を見送った。生と死の3部作は佐々さんが選んだ最初のテーマだった。

 今回上梓された『夜明けを待つ』にある42編は、最初、新聞や雑誌に掲載されたもので、すべてに出典と日付が載っている。確認すると、後書きをのぞき、佐々さんが発病する前に書かれていた。にもかかわらず、死に関する文章が目立つ。

 結果論にすぎないとはいえ、のち、五十代で悪性の脳腫瘍を発病し、こんなにも早く死を受容せねばなら彼女にとって必要な意味は『死ぬ』と『生きる』だったはずだ。その彼女が自身の運命を知らぬ時期に、作家としてのテーマとして死の現場を選んできた。なんという偶然なのか。こんな稀少な人生があるだろうか。稀少は佐々さん流にいえば希望である。佐々さんは希望のがんで、希望の人生を終える。

「なぜ取材をするのか。それはきっと私に想像力がなく、人の気持ちもわからないからだ。だからこそ人の中に入り、話に耳を傾ける」(本書の『スーツケース』より抜粋)

 病状が進行すれば、いや、もはやすでに、佐々さんは現場を訪問出来ないのだろう。だが、実を言うと人間は自分を一番分かっていない。外界に出られないなら、今度は詩人たちのように、自分の内面に潜ればいい。歩けなくなったって、世界はまだまだ広大だ。

 

 佐々さんは別れの言葉に、ノンフィクション作家らしく、かつて取材したこどもホスピスでのエピソードを選んでいる。重病で死を待つ子供たちは自分の境遇をはっきりと認識しており、次の約束をせず、いまこの瞬間を「楽しかった」とだけ言うそうである。

「なんと素敵な生き方だろう。私もこうだったらいい。だから、今日は私も次の約束をせず、こう言って別れることにしよう。

『ああ、楽しかった』と」(あとがきより) 

 我々読者も同じです。佐々さんの作品のどれを読んでも、やっぱり、すごく楽しかったですよ。希望の作家よ、さようなら。たくさんの作品を、そして最後のプレゼントをありがとう。

『ヤクザときどきピアノ』難読部分解説動画、および解説

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音楽を文章で表現するのはむつかしい。やってみせれば一目瞭然なのに、それを文字で解説すると、文章力がない上に、普段、やっていない分野なのでとっちらかる。『ヤクザときどきピアノ』にもずっとわかりにくいと気になっていた記述があります。はてなブログには動画を貼れないのでYouTubeにアップしたのだが、俺のチャンネルを登録してた人が60人もいてぶったまげましたw そのアカウントは削除しちゃったのだが、この記事の動画が無いと困るので結局、別のアカウントをつくってまた上げた。

ともあれ、これじゃわかんないよなと思っていたのはP129です。

「ピアノで左右の指を別々に動かすための訓練・・・・・・ レイコ先生は、耳で音を追わず、一小節ずつ細切れにして、まずは楽譜の縦の線を揃えた指運びだけ覚えるよう指示した。具体的にどうやって練習するのか….....といえば、ひたすら一小節を細かく割っていく。 たとえば〇・一秒単位に分割し、 〇・二秒後は右手の指がどの鍵盤の上にあって左手の指がどこにあるか暗記し、○・三秒後はこう、〇・四秒後はと続けて暗記する。そのくり返しによって一秒を完成させ、さらにまたくり返すことで十秒、二十秒と延ばし、十本の指がそれぞれどう動くかをすべて暗記する。これを完成させると、まるで左右の手がそれぞれ見事に別のメロディーを弾いているように見える。当人は、指をくり出す順番を機械的に暗記しているだけに過ぎなくても」

楽譜で言えば以下の部分になります。演奏開始直後、いきなり訪れる高い壁!

『ダンシングクイーンの楽譜』は、レイコ先生が音を削ってアレンジしてくれたものです。

もう弾ける気がしなかった。一小節の中が宇宙過ぎて。
実際、右手のパートを歌いながら、左手のリズムを合わせてもできない。
なのでレイコ先生は、一小節ずつ、どっちの指で
鍵盤をたたくか、その順番とタイミングを機械的に覚えるよう指導してくれました。で、できたんだ。人間ってすごい。いや、ピアノの先生ってすごすぎる。

レイコ先生は、生徒によってまるで別人のごとく声色を使い分けるので、この声は成人男性用なんだと思いますw

我が家のお隣さんは、ピアノ教室に水産庁【024p】

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団地住まいだった俺の夢は、一軒家だった。
マンションは暴力団の嫌がらせに対処しやすいのだが、どうしても戸建てがよく、30才の時、建売住宅を買った。70坪程度の敷地を持つ古い家が売却され、更地にして三軒分に分割し、スペースを最大限に生かして分譲住宅を建てるために図面が引かれた。俺が買ったのは三棟建ての中でも、表通りから母屋が見えない、奥まった場所に建築されるパターンのちょっと残念な家だった。

その分、木造三階建てを回避できたし、駐車スペースは広く、その気になれば車が2台置ける。玄関前に車を置くと運気を遮ると言われており、気にする人には敬遠されるらしい。安藤昇は自らの経験談から風水にうるさかったが、俺は非科学的なスピリチュアルは一切信じない。すべてを無視して生きてきた。随分前に、縁起がいいとされる日本古来の慣習を一切とりやめても不具合はなかった。

 

軽トラの向かって右側は同時期に売り出された建て売りで、2階建ての我が家とは違って縦に長い3階建てだ。俺が入居した際はまだ売れておらず、三棟建ての真ん中だったので最後まで売れ残った。入居したのは水産庁の官僚だった。その後、『サカナとヤクザ』を書き、農水省の書店で売り上げナンバーワンになるなんて、考えたこともなかった。

 

今年の頭、天下りに成功したのか、家族は唐突に引っ越していった。腰掛けと思って馴染む気がなかったのか、あまり挨拶をしない人たちだった。娘さんがいたが、親がそうだと、やっぱり挨拶をしない。目が合って「こんにちは」と言っても、無言のまま逃げるように家に入るのが常だった。まだまだ住めたはずだが建て壊され、新築された。越してきたのは若夫婦と二人の男の子で、今度は全員が挨拶を欠かさぬ体育会系である。

軽トラに向かって左側、グリーンの外壁のお隣さんは、奥さんがピアノ教室をしていた。写真で銅色の雨戸が閉まっているあたり、車のすぐ横がピアノの部屋である。建て売りを購入しようかと思い、内見をしているさいも、夕方になるとピアノの演奏が聞こえてきた。隣人の社会性は、住宅の大事な付加価値である。どうしても確認せねばならない。手土産を持って訪問した。奥さんは朗らかな女性だった。もう10年続けているそうだ。いまはもう娘さんたちが随分大人になっていて、書籍に書いたようなエピソードはまったく消滅した。「くそばばぁ!」という娘さんもの叫び声も、もうずいぶん聞こえてこない。

 

俺が入居して数年後、お隣のピアノ教室は自宅の塀の上に小さな、可愛い看板を出した。するとそこに書かれた電話番号に、匿名の苦情がひっきりなしにかかってきたという。名前は言わない。うるさいとしか。江古田は武蔵野音大もあるし、日芸にも音楽学科があり、ピアノのみならず、楽器の練習音があちこちから聞こえてくる。ピアノ教室は防音にも気を配っている。真横で車を整備していても、耳に届くのはごく小さな音でしかない。そもそも俺たちが引っ越してくる数年前から、ここにはピアノ教室があったのだ。いまさらではないか。

今回、敬愛する溝口敦に献本したところ、憧れのヒーローから「ABBAが弾けておめでとうございます」とメールが来た。本が出ておめでとう、なんて言わない。それは仕事で、当たり前の日常だからだ。溝口はメールでこう続けていた。

「結局、子どものころからピアノと楽器への興味があったんじゃないのという感じです。やはりオヤジがいきなり始めて、うまくなれるものじゃない。その前に素養と関心が必要です」

まさにそうだ。そして、ようやく気付いた。俺は隣がピアノ教室だったから、この家を選んだのだ。だからもし、今後、教室に苦情があったら電話を替わって欲しい。

「俺はピアノ教室を込みでここを買ったんだ!この音が心地よくて住んでいるんだ!」

夕刻の数時間だけ訪れる夢の時間を、台無しにはさせない。

ピアニストの文学者、ヴァレリー・アフェナシェフ【005p】

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ヤクザのことはいきなり書ける。俺の中には25年分の蓄積が澱のように溜まっている。それらをすくいあげ、味付けすれば、ヤクザのあらゆる面を描写できるはずだ。ただし、ヤクザというドアを使って他の分野をのぞいた時……それは前々作である『サカナとヤクザ』に顕著だが、新しい知見をインプットせねばならない。

『ヤクザときどきピアノ』は、俺の得意分野であり、他の同業者がなかなか使えない”ヤクザ”というカードを客寄せとして使ってはいても、ピアノ、そして学習する意義を書いた作品である。俺の語彙の中には、たとえば「汚れ」や「社会からの逸脱」を伝えるツールはごっそりコレクションされているが、「美しさ」や「学びの尊さ」を表現するそれはほとんどない。だからピアノや音楽のことを書こうとしても、身体の中に言葉がない。せっかく拳銃を手にしても、弾倉がからっぽなのだ。


なので、どうしても弾薬が必要だった。まずはピアニストのインタビューを読みまくった。名前をあげればけっこうな数になる。イーヴォ・ポゴレリチ、グウィニス・チェン、エリソ・ヴィルサラーゼ、ドミトリー・バシキーロフ、ナウム・シュタルクマン、オクサナ・ヤブロンスカヤ、ウラディーミル・クライネフ、エリザベート・レオンスカヤ、ミハイル・ルディ、ニコライ・ルガンスキーゲルハルト・オピッツラルス・フォークト、レイフ・オヴェ・アンスネス、ピーター・ドノホー、クリスチャン・ツィメルマン、ジェルジ・シャーンドル、タマーシュ・ヴァーシャーリウラディーミル・アシュケナージベラ・ダヴィドヴィチ、リーリャ・ジルベルシュタイン、エフゲニー・キーシン、ロジェ・ブトリ、テオドール・パラスキヴェスコ、ジャック・ルヴィエ、ジャン=フィリップ・コラール、ミシェル・ベロフ、ラベック姉妹、パスカル・ロジェ……日本人ピアニストの本も読みあさった。

もっとも印象に残ったのが、ヴァレリー・アファナシェフのインタビュー集だった。著作である『ピアニストは語る』から略歴を抜粋する。

「1947年モスクワ生まれ。モスクワ音楽院ヤコブ・ザークとエミール・ギレリスに師事。1968年のバッハ国際音楽コンクール(ライプツィヒ)、1972年のエリザベート王妃国際音楽コンクール(ブリュッセル)で優勝。1974年にベルギーへ亡命。これまでに四〇枚以上のCDをリリース、その独自の音楽性が論議を呼び、音楽界に大きな刺激をもたらしている。ピアノ演奏にとどまらず、文学者の顔を持ち、日本でも小説、詩集、エッセイ集などを出版している」

彼の母親もまたピアニストだったという。当時のソ連でピアニストは特別な存在だった。民衆の尊敬を集め、そして、なにより外国に行ける。海外旅行は政府要人の特権であり、ピアニストはその特権を行使できるソ連芸術家の代表だった。だが、海外をみればみるほど、西側の自由に惹かれてしまう。のち、ソ連からたくさんのピアニストが欧米に亡命した。アフェナシェフもその一人だった。

長い間、彼は亡命に関しての体験を語らなかったが、同じ境遇のピアニストが、ソ連当時のことをかさ増しして話すのを批判していた。アフェナシェフは誠実なジャーナリストでもあった。

「音楽はいたるところに偏在する。沈黙の中、静寂の中にすでにある音楽を、ふと聞こえるように示すことが音楽家の仕事なのだ」

能弁なアフェナシェフはどんな質問にも、相手が期待した以上の言葉を返してくる。彼は音楽を言語に、言語を音楽に翻訳出来る、稀少なバイリンガルなのだ。俺はこのピアニストから音楽に関する多くの語彙を得て、音楽を言語化し、拳銃に弾丸を込めていった。

俺の言葉は、誰かの心を撃ち抜けるだろうか。

ハンガリア舞曲第5番【P003】

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真駒内小学校の六年生だった時、学芸会で音楽合奏をすることになった。担任の教師のたっての希望だった。そのときに演奏したのが、ブラームス作曲の『ハンガリア舞曲第5番』である。実を言えば、このほか当時大ヒットを連発していたピンクレディの『サウスポー』、『宇宙戦艦ヤマトOP』の3曲をやったのだが、俺はミーちゃんもケイちゃんも苦手で、竹下景子にぞっこんだった。

子供というものは残酷だ。誰がどの楽器を担当するか。結局、我の強いものが目立ったパートを独占していくようになっている。俺は特別内気ではなかったけれど、こういったとき、自主的に手を上げられる性格ではなく(いまもそうだ)、結局は本に書いたように、その他大勢のパートであるピアニカ(メロディオン)を担当した。

担任はずいぶん楽しそうだったが、正直、嫌で嫌でたまらなかった。なにしろ他の児童の引き立て役をやらされるのだ。楽しいわけがあるまい。一部の児童と盛り上がる教師をみて、なんて他人の心が分からないヤツなんだと根に持っていた。その恨みは、教師の結婚が決まり、自宅に遊びに行った際、挨拶をしてきた婚約者の女性に向けられた。

「先生は、あまりめんくいではないんですね」

自分に彼女ができたとき、子供とはいえ最低の復讐をしたことに気がつき、というより、無関係の人に八つ当たりをしただけと理解し、自己嫌悪に陥った。返す返すも俺は担任と同程度最低で、他人を思い遣れる子供ではなかった。

奥さん、本当にごめんなさい。反省しています。もう40年も前のことで、あなたが元気かもわからないけれど。

 

 

教会と日曜学校【P003】

 

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俺が育った道営住宅Bー8団地

 

小学校から高校を卒業するまで、札幌市南区真駒内上町二丁目の道営住宅で育った。

 

上町は富裕層と低所得者層が混在する特殊な町だ。

中学の深田という社会の教師は、「ここは札幌で唯一のスラム街だ」とよく嘲笑っていた。歴史のない北海道なので被差別部落問題は存在せず、ほぼすべてが新しく北海道に移住してきた新参者である。教師は低所得者層が固まっている団地をそう表現したのだろう。

 

1丁目は野村證券の社宅やカゴメなど法人の寮が密集する企業エリアである。今はガソリンスタンドが出来たり、分譲マンションに変わっている。カゴメの社宅には庭にぷらんこがあって、その横に朽ち果てたT型フォードが置かれていた。ほぼスクラップではあるが、子供たちにとっては夢のマシンだった。

 

俺の住む2丁目はお屋敷街と二階建て・四階建ての団地が混在する、金持ちと貧乏人が共存する雑多なエリアだった。町内は世帯の所得によって見事に分断されていた。せせらぎの音が綺麗な人工の川が2丁目と3丁目の間にあって、川向こうはちょっとしたショッピングエリアになっていた。ポニーショップという名のショッピングモール(四階から上は分譲マンション)、スーパーマーケット、地元商店街があり、中川精肉店、品田米店、西野商店、藤塚文房具店、アジワイ用品店、喫茶店電気屋、レストランキャビン、銭湯や郵便局・銀行がひしめき合うように並んでいた。道路を挟んだ向こうは医療エリアで、村元内科、土本眼科、栄養短大がかたまっていた。村元は長く我が家のかかりつけ医で、とても優しい先生だった記憶がある。1度、北海道の長期滞在中に服用してる薬がなくなった際、顔を出してみたのだが、クソみたいに乱暴な口調の医者が継いでいた。

4丁目は文教エリアだ。カトリック教会は、上町のど真ん中にある公園と隣接していた。北海道の短い夏、この公園で盆踊り大会が開催され、午後8時までは北海子供盆踊りがエンドレスで流される。これが北海道だけの独自の文化と知ったのは、上京して東京の盆踊りを見た時だった。

 

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 公演の隣に、俺の通った札幌市立真駒内小学校があった。とても変わった作りの校舎を持ち、一学年四学級だった。グランドは広く、築山があって、冬はその山でスキー授業をした。また4丁目はA団地の二階・四階建てもあった。

5丁目には自衛隊側がお屋敷で、集合住宅との境に駄菓子屋や春木自転車などがあり、その奥に警察アパートやC団地が建てられていた。ここも貧富の差が激しかったのだが

当時、子供にとって親の属性などあまり関係はなかった。

 

俺は団地の、つまり貧民の子だったけれど、幼稚園は上町のど真ん中にある聖母幼稚園に通わせてもらった。日曜には必ず日曜学校に通った。そこにあるピアノは、俺にとっての夢の入口のような存在で、毎週、その音を聴くのが最高の楽しみだった。

 

40代になって女の同級生(彼女は2丁目のお屋敷街に住んでいた)と一緒に、日曜のミサに顔を出したことがある。配られたパンフレットには誇らしげに卒園生の元宇宙飛行士・山崎直子さんが載っていた。有名人ってのは幼稚園にまで看板として使われるんだな……馬鹿馬鹿しくなり2人で笑った。


団地は貧乏所帯ばかりで、給食費免除の制度を利用していたのは、俺を含めすべてが団地の子ばかりだった。それでもあちこちの部屋にピアノがあった。北海道の鉄筋コンクリートは壁が厚く、生活音の苦情はなかったと記憶している。それともまだおおらかな時代だったのだろうか。

B8号棟のOさんも娘にピアノを買っていた。彼女は俺の3つ年上で、なかなかの美人だった。この家は禁止されていた犬(スピッツ)も飼っていたから、案外、やりっぱなしの不良住民だったのかもしれない。

上町にはこのほか、アジワイ用品店のすみかちゃんというすごい美人がいた(大人たちが振り返るほどだった)。彼女も俺の3つ年上だった。うちの父親は近所で有名な漫画狂いで、毎週、ジャンプ、チャンピオン、マガジン、サンデーに加え、花とゆめ少女コミック、マーガレットなどを買っており、両親同士が仲が良かったので、よくすみかちゃんが漫画を借りにきた。うちに来るのは大抵2丁目のお屋敷街でピアノ教室のレッスンを受けた帰りだった。

 

レッスン帰りのすみかちゃんはあまり楽しそうみえなかった。

「ピアノ好きなの?」
「ほんとはやめたいの。先生がすぐ叩くの」

みかちゃんは本当は運動がしたい、と言っていた。運動神経は抜群によかった。誰よりも足が早く、運動会ではいつもリレーの最終走者に選ばれた。6年生の時には最後尾から全員を一気にごぼう抜きして拍手喝采を浴び、見事優勝を勝ち取った。

 

そんなにも元気なすみかちゃんは、高校に入ると病気で入院を続けた。1度家に帰ってきた時、父親・母親と3人で見舞いに行った。部屋にアップライトのピアノがあった。

「すみかちゃん、ピアノ弾ける?」

みかちゃんは『猫踏んじゃった』を弱々しく弾いて、すぐベッドに入り、眠ってしまった。それからまもなくして、すみかちゃんは逝った。死ぬのもまた誰よりも早く、高校は卒業出来なかった。

 

いま、上町はどんどん人が減って、老人ばかりになっている。小学校も廃校になった。昼間、団地のあちこちにいた子供たちの姿はもはやない。スラムというより、将来は廃墟になるのかもしれない。

 

台湾の、いわゆる日本でいう水産庁

 

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台湾取材の際、いちおう当てにいきました。通訳はあっちが用意してくれるということだった。俺としては「台湾がシラスを輸出禁止にしたのは、シラスを売ってくれない日本への報復」と言って欲しいわけですが、役人さんに、いきなり、正面から質問をぶつけてもやはりはぐらかされます。

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っつーか、もう大事になってしまって、なんでこんなに人がくるんだっつー。なんど質問しても、紋切り型の答えしか返ってきませんでしたw

面白かったのは、このあと、記念品のネクタイをお土産にくれたことです。いいんすかね。いや、いいか。しかし、宜蘭(ぎらん)の  シラス問屋に行くとき、チャーターした車の中に忘れてしまった。もったいなかったw